「愛すること、愛されること」 03−08−24 大嶋義太郎名誉牧師
ヨハネの手紙一 4章7〜12節
アシジのフランシスの生涯は徹底した清貧と愛で貫かれ、その愛は小鳥や狼に
まで及び、慕われたと言います。彼は有名な『平和の祈り』を残しています。
『ああ神よ、我をして…平和に道具として用い…慰められる事を求めずして慰める
ことを求め。理解されるよりも理解することを、愛される事よりも愛する事を求めしめ
給え。…』
これらの祈りはイエス様の御言葉から出ています。
マタイ22章39節『隣人を自分のように愛しなさい。』 マタイ5章44〜46節『敵を愛し、
迫害する者のために祈れ。』など等です。
御言葉を聴く人々の中で、実行しようとすればするほど実行不可能な自分を発見
して悩む人は祝福された人です。愛について更に深く追求した有島武雄は『私は
涙するほどに自分を愛する、聖書は「愛は惜しみなく与える」と言うが愛は惜しみなく
奪うものだ』と言って、人間の愛は自分の為の愛であって、利己的なものだと結論して
います。自分の心の奥深くを覗くと、それが本当であると認めざるを得ません。
ここで私たちは、聖書に聞かなくてはなりません。
ヨハネの手紙一 4章10節。『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、
私たちの罪を償(あがな)ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛が
あります』、『ここに愛があります』。まさに『惜しみなく与える愛』、『本当の愛』が
ここにあります。
本当の愛は、神様から与えられます。私たちに愛が足りないのは、神様の絶大な
愛をしっかりと受け止めていないからです。神様の愛に満たされて互いに愛し合う
者になれたら、どんなにか、私たちの家庭が祝福に満たされる事でしょう。
このギスギスした世界がどんなにか、平和と愛に満ちた世界になるでしょう。
其のためには、先ず、フランシスのように神様の溢れる絶大な愛を全身全霊に受け
止める事です。愛されるよりも愛する者になる為に、先ず、神様の愛の許(もと)に
行きましょう。